製作者
 越山周三郎(初代) 再建像 大須賀辰成他三名 
特記事項/寄付者
 忠勤山 立身斎家而以守国土
碑銘
 昭和9年秋(初代) 再建 昭和57年ごろ
設置年月日
 70cm 
大きさ
 石像立像
材質・形状
八幡宮 
額田郡幸田町
愛知県











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愛知県 額田郡幸田町 八幡宮
愛知県 額田郡幸田町大字六栗字八幡24番





樹齢350年の大木と同じころ建立の鳥居

 

 

 





忠勤山

 立身斎家而以守国土
昭和九年秋  周山建
(初代の像寄付者揮毫)
戦時中の金属供出令で供出、その像が金次郎像だったのかは不明


 

昭和15年、地元六栗生まれの氏子四名が初老記念で再建(昭和57年ごろ)
大須賀辰成・志賀保兆・志賀竜市・高橋平和


八幡宮 拝殿


徳川家の許しで三河地方は弓道が盛んで
江戸時代から各地の神社で射的競技が行なわれた。



拝殿内の記載文章

弓道流派には礼儀作法を重んじる小笠原流と実技を主とする日置(へき)流がある。

三河には日置流が多い。六栗陣屋では毎月一と六の日に陣屋で近隣の同行者

を集めて練習していた。(一回の練習は三十射ずつ)

矢場(的場)は志賀善八郎家(陣屋を兼ねた屋敷後に六栗学校になった屋敷)

にあった。練習の成果を各地の競射会で競ったのである。

岡崎六所神社や芦谷八坂神社に志賀善八郎恵好の献額がある。

金的は一寸八分(約五センチ)の金の的。的までの距離は十五間(約二十七

メートル)十七間、二十間の場合もあった。

弓の長さは七尺三寸(二・二メートル)身長に合わせ一寸から二寸の長短が

あった。金的に的中すると、的中した矢(箭)と的中額を奉納することに

なっていた。玉串料も一緒に献じたであろう。

金的中の出ない場合は的の数を増やして的中率を高めた。

三ツ的、七ツ的、九ツ的があったが、九ツは稀であった。

八幡宮の奉納額には、安永四年(1775年)や天明七年(1787年)のものがある。





金的中の奉納額


 

 

参道の石柱
初代像を寄付した越山周三郎
奇應康生丸本舗


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