火の見櫓

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    火の見櫓とは

火の見櫓は火災が多く発生した江戸の町で、
木造の高い櫓(やぐら)を建て
最上階に半鐘や太鼓、板木などを備え
終日地域を監視し、火災を発見した時に
それら鳴り物を打ち鳴らして避難や消火の
出動を知らせるためのものでした。

大名火消し


記録に残っている最初の火の見櫓は江戸時代 慶安三年(1650年)といわれています。
江戸幕府は江戸城の火災をたいへん恐れていました。また火災による治安の悪化の恐れも
重視していたようです。
そこでいち早く火災を発見し消し止めるために「火消し」の役割を各大名に命じました。
寛永20年(1643年)本格的な「大名火消し」を制定しました。六万石以下の大名十六家が
それにあたりました。
それにあわせて各大名家敷地内に「大名火消し」による初めての火の見櫓が誕生しました。

定火消し

死者十万人、江戸城天守閣、本丸、二之丸、三之丸すべてを消失し江戸城下の大半を
焼き尽くした「明暦の大火」(振袖火事)明暦三年(1657年)。
その翌年万治元年(1658年)幕府は旗本四家に命じ「定火消し」制度を創設し本格的な
消防組織が出来上がりました。
その後江戸城を取り巻くように十組配置されました。
「定火消し」の火消し屋敷は三千坪の屋敷に高さ三丈(約9.1メートル)の火の見櫓
建てられました。
この櫓は四方が空いていて外囲の蔀(しとみ 可動式のひさしのようなもの)が素木生渋塗り 
だったといわれています。

各大名屋敷にも火の見櫓が建てられましたが江戸城の方角は必ず塞ぐことに
なっていました。
また櫓の高さも二丈五尺(約7.6メートル)までと制限されていました。
櫓には太鼓と半鐘があり、常に同心二名が見張っていました。
火事を発見すると太鼓で合図します。(火事太鼓) また近火の場合には太鼓と半鐘を
交互に打って知らせました。
町火消し


幕府の定火消し別に八代将軍吉宗の時、享保五年(1717年)南町奉行大岡越前守忠相が
町民による組織「町火消し」をつくり消防制度の確立をしました。
常置の火の見櫓は十町に一つ位の間隔で設置されました。(一町は約百八メートル)
また火の見櫓の無い町内は自身番屋の屋根の上に火の見梯子をあげて番人が監視しました。
火事の際火の見櫓上では最初半鐘を使っていましたが、定火消しと紛らわしいので一部を除き板木(ばんぎ)に変えさせられました。

板木はケヤキの一枚板で大きさ五尺x三尺  
音がよく鳴るように裏に富士山型のへこみが
彫りこまれていました。その後半鐘が許されま
したがそれでも定火消しの太鼓が鳴らない限り
先に火の手を発見しても勝手に鳴らすことは
禁じられていました。
現状
明治以降全国各地でも火の見櫓が建てられました。
多くは木製のものでしたが、鉄製も一部作られ始めます。
第二次大戦前 日本全国各地の各「字(あざ)」ごとにも建てられましたが、
その後鉄製で建てられた火の見櫓は、戦争中 金属資源の不足を補うために
金属類の供出を義務付けた「金属類回収令」昭和16年(1941年)が施行され
強制的な供出命令により鉄製の火の見櫓のほとんどが撤去されました。
戦後しばらくして(昭和20年代後半から)各地で再建され始め、各地方の消防団の
火の見櫓
として復活しました。
ピークは昭和30年代で、多くの火の見櫓がこの時期建てられました。
しかしその後電話の普及、自治体消防の設置によりその役目を終え、
古くて危険になったものから順次撤去されています。

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