火の見櫓
火の見櫓とは | |
火の見櫓は火災が多く発生した江戸の町で、 |
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大名火消し | |
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定火消し |
死者十万人、江戸城天守閣、本丸、二之丸、三之丸すべてを消失し江戸城下の大半を 焼き尽くした「明暦の大火」(振袖火事)明暦三年(1657年)。 その翌年万治元年(1658年)幕府は旗本四家に命じ「定火消し」制度を創設し本格的な 消防組織が出来上がりました。 その後江戸城を取り巻くように十組配置されました。 「定火消し」の火消し屋敷は三千坪の屋敷に高さ三丈(約9.1メートル)の火の見櫓が 建てられました。 この櫓は四方が空いていて外囲の蔀(しとみ 可動式のひさしのようなもの)が素木生渋塗り だったといわれています。 他の各大名屋敷にも火の見櫓が建てられましたが江戸城の方角は必ず塞ぐことに なっていました。 また櫓の高さも二丈五尺(約7.6メートル)までと制限されていました。 櫓には太鼓と半鐘があり、常に同心二名が見張っていました。 火事を発見すると太鼓で合図します。(火事太鼓) また近火の場合には太鼓と半鐘を 交互に打って知らせました。 |
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町火消し | |
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板木はケヤキの一枚板で大きさ五尺x三尺 音がよく鳴るように裏に富士山型のへこみが 彫りこまれていました。その後半鐘が許されま したがそれでも定火消しの太鼓が鳴らない限り 先に火の手を発見しても勝手に鳴らすことは 禁じられていました。 |
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現状 | |
明治以降全国各地でも火の見櫓が建てられました。 多くは木製のものでしたが、鉄製も一部作られ始めます。 第二次大戦前 日本全国各地の各「字(あざ)」ごとにも建てられましたが、 その後鉄製で建てられた火の見櫓は、戦争中 金属資源の不足を補うために 金属類の供出を義務付けた「金属類回収令」昭和16年(1941年)が施行され 強制的な供出命令により鉄製の火の見櫓のほとんどが撤去されました。 戦後しばらくして(昭和20年代後半から)各地で再建され始め、各地方の消防団の 火の見櫓として復活しました。 ピークは昭和30年代で、多くの火の見櫓がこの時期建てられました。 しかしその後電話の普及、自治体消防の設置によりその役目を終え、 古くて危険になったものから順次撤去されています。 |