二宮金次郎とは

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いつ頃の人?

天明7年(1787年)7月23日生まれ
(江戸末期 徳川11代 家斉が将軍になる。天明3年から天明の飢饉始まる)

安政3年(1856年)11月20日 69歳で没する
(徳川13代将軍家定に篤姫-後の天璋院が輿入れ。 明治維新の12年前)

 どこで生まれたの?

相模国足柄上郡栢山村(神奈川県小田原市栢山(かやま)


小田原市栢山の金次郎生家

何をやった人?

小学校などに有る薪を背負って本を読み歩く金次郎像は16歳ごろの姿です。
祖父の銀右衛門が作った財産(2町三反ほどの田畑)を、父利右衛門の放蕩生活や
大雨で酒匂川の堤防の決壊などもあり、その財産の多くを失ってしまいました。
その果てとしての貧困の中で父も亡くなり、16歳の金次郎が母を助け一家の
柱として薪を刈り小田原の街まで売りに行った姿を現していると言われています

その後母親も亡くなり、伯父萬兵衛の家に引き取られ成人します。
伯父から独立して、二宮家の再興のために努力し失った田畑を買い戻しました。

独学と天性の素質で小田原藩の家老服部家の財政再建を成功させます。
それを聞いた小田原藩主大久保忠真公より荒廃した桜町領
(現栃木県芳賀郡二宮町)の農村の立て直しを依頼されみごとに復興させ
その後各地の農村・破産状態の各藩の立て直しを亡くなる直前まで続けました

後世に名を残す二宮金次郎(尊徳)は、この農村復興や藩財政の立て直し等
各地で大活躍をしたことで、一介の百姓では無く偉大な実業家・農政家とも
言われるようになりました。その方法をまとめたものが「仕法」といいます。

その思想は報徳社として受け継がれ現在も農業のみならず経営の規範として
各方面で見直されております。 


勤労・分度・推譲

<二宮金次郎が農村復興・藩財政の立て直しを行う上で基本とした考え方>

「勤労」:積小為大(小さいことを積み重ねて大きな結果を為す)という考えを元に
      自分で定めた目標に向かって行くためには小さな事から怠らず
      それに向けて、つつましくつとめなければいけないということ。

「分度(ぶんど): 収入に見合った限度を定めそれに応じた支出の限度を計画的に
      定めていくこと。ただ節約・倹約を唱えても実効はあがらないので、どう節約・
      倹約をするか過去にさかのぼり具体的な実行目標を数字で示してその後の
      努力目標とすることが大切だという考え方で、報徳思想の中心となる基本的な
      教えで重要だと言われる。

「推譲」 :分度により努力して残った剰余分を困窮している人々などに見返りを求める
       事なく分け与えること。あくまでも分度により得られたものに限られる。 


勤倹力行・積小為大・至誠 

<各地の金次郎像の台座などに書かれた金次郎の教えの言葉>

「勤倹力行」 :仕事に励み、つつましやかに倹約して精一杯努力し物事を行う事。

「積小為大」 :小さなことからコツコツと励み続けることがやがて大きく実を結ぶ 

「至誠」
 :この上なく誠実なこと。 まごころをもってあたれば何事も報われる。


 

以上は二宮金次郎について書かれた本や資料による金次郎の概略です。
私も含めて金次郎さんと言えば、小学校の校門の横などにあった石像のイメージです。
また小学校教育関連ではこんな歌がありました。 

尋常小学唱歌「二宮金次郎」 明治44年(1911年)

1 柴(しば)刈り縄ない 草鞋(わらじ)をつくり
  親の手を助(す)け 弟(おとと)を世話し
  兄弟仲よく 孝行つくす
  手本は二宮金次郎

2 骨身を惜(おし)まず 仕事をはげみ
  夜なべ済まして 手習(てならい)読書
  せわしい中にも 撓(たゆ)まず学ぶ
  手本は二宮金次郎

3 家業大事に 費(ついえ)をはぶき
  少しの物をも 粗末にせずに
  遂には身を立て 人をもすくう
  手本は二宮金次郎

二宮金次郎を当時の政府が軍国主義の象徴として「利用」しようとしていたのでしょうか。
修身教育は明治5年の学制公布から開始され、明治13年教育令改正により尊王愛国の養成
のため筆頭科目となります。さらに明治23年の「教育勅語」発布により教育の中核となります。
二宮金次郎が修身の教科書に出てきたのは明治37年国定教科書「尋常小学修身書」
「孝行」・「勤勉」・「学問」・「自営」という4つの徳目に登場します。

明治37年〜大正・昭和16年までの尋常小学校と、16年以後国民学校の昭和20年まで
一貫して「修身」という教科で二宮金次郎は題材として利用されました。
教科書に載せるということは、国民の理想像として具体的な事例を挙げて子供たちに教える
という事であり、それが一部では時の政府にとって都合のいい子供たちを作り上げるためとも
言われているようです。 

しかし
二宮金次郎に関する部分は、当時の社会では当たり前だったと思われる
「勤勉」「孝行」・・といった人の道を言っているのであって、修身に出てくる他の題材
たとえば天皇や国家に対する「忠君」「愛国」「報国」といったものとは異なるのでは、、。

戦後、駐留米軍GHQの命令で小学校にあった奉安殿(天皇の御真影・教育勅語設置)や
乃木大将像、楠木正成像などが撤去されたが、二宮金次郎像は残されたのを見ても
決して軍国主義の思想植えつけに利用されたわけではないと思います。
その裏付けとして、戦後すぐに発行された新一円札に尊徳像が採用されました。 


昭和21年3月19日に発行された日本銀行券


国定修身教科書・尋常小学修身書 巻三

四 かうかう(孝行)
五 しごとにはげめ
六 がくもん 







大垣市上石津郷土資料館 資料より


金次郎の実像

二宮金次郎の一生を記した伝記や逸話の大半は、金次郎の門弟であり金次郎の
娘文子の夫でもある富田高慶の「報徳記」によるものが多く、その内容が以降
教科書や児童書になり正確ではない情報が伝わってきているようです。

金次郎の逸話として最も有名で重要な話は、親を助けるために山へ柴を刈りに行き
小田原の町へそれを売りに行き、その行き帰りに「大学」の書を読みながら歩いた、、
というまさに今に残る金次郎像の元になった話です。

二宮本家に生まれ金次郎の研究をされた二宮康裕氏の「二宮金次郎の人生と思想」
によると、金次郎本人はそのことに関して言ってないし、栢山村での聞き取り調査
でもその事実は無く、そもそも金次郎が柴を刈ったという「入合地」には入合権という
ものがあり、勝手に柴や薪を刈ってそれを売るなどということは絶対出来なかった。

そこで、小田原城下に売りに行かなかったとして、自分の家のためなら許されたと
仮定すればこの話はなりたつのではありますが、、。

富田高慶「報徳記」
「採薪の往返にも大学の書を懐にして途中歩みながら之を誦し少しも怠らず」
(富田高慶「報徳記」全集36巻65頁)

明治24年に「報徳記」を元に幸田露伴が書いた「二宮尊徳翁」では
「大学の書を懐中に常離さず、薪伐る山路の往返歩みながら読み玉ひし」

両方とも書を懐にしていると言っているのだが、「二宮尊徳翁」の挿絵には
あきらかに本を読みながら薪を背負って歩いてる姿があったことが
その後金次郎少年の姿が具現化してしまったということのようです。

二宮康裕氏の「二宮金次郎の人生と思想」によれば、金次郎が25歳ごろから
私有林の伐採権を買い取り、実際に薪の販売をしていたということです。
本家再興や自分の家の復興に商業活動をしていたことがわかります。

また、二宮康裕氏によれば頻繁に起こる栢山を流れる酒匂川の氾濫を防ぐ
目的で金次郎が堤防に松の苗を植えて洪水の予防をしたという話もあるが、
実話としての記録も無いということです。

小田原藩重臣服部家の財政立て直しを成功し小田原藩主に依頼され各地の
領地立て直しを成功させていくわけですが、元手となる資金はまさに
「積小偉大」を実践して自分で増やした田畑を小作にやらせ米相場にも
出資して徐々に蓄えていったということです。
その資金を使って「仕法」の元手とし「勤労」「分度」「推譲」を実践したのです。 

金次郎の名前について

                           金治郎 : 父親 利右衛門に付けられた名前 菩提寺の墓標はこの字
                           金次郎 : 文政3年34歳の時小田原藩公用書類に記載され、それ以降使用
                           林 蔵 : 小田原藩 家老 服部家に奉公した時の若党名
                           尊 徳 : (たかのり)通称そんとく 幕府登用後天保14年57歳ごろから武士の名
                           山 雪 : 俳号
                           誠明院功誉報徳中正居士 : 法号



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