長坂順治  台石提助 鈴木文吉 
製作者
 聾唖部校友会・盲 部信友会・取持ち 鈴木忠太郎    
特記事項/寄付者
 御大典記念  本校創立25周年記念 
碑銘
 昭和4年2月11日 除幕式 
設置年月日
 100cm(現状) 昭和20年三河大地震で倒壊 
大きさ
 石像立像
材質・形状
岡崎聾学校
岡崎市
愛知県










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愛知県 岡崎市 岡崎聾学校
愛知県岡崎市西阿知和町字御用田1- 23
http://www.okazaki-sd.aichi-c.ed.jp/
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創立 明治36年



「愛知県立岡崎聾学校創立100周年記念誌」別冊
二宮金次郎石像について
 より
「石都岡崎・石と共に生きる」(昭和61年3月発行)には、岡崎市内小中学校の
二宮金次郎像の建設年譜の表が示されています。

昭和4年 旧岡崎盲唖学校
昭和6年 梅園小学校、福岡小学校
昭和7年 矢作西小学校
昭和8年 男川小学校、連尺小学校、秦梨小学校、奥殿小学校、矢作東小学校
       六 ツ美北小学校、矢作南小学校     (以下 略)

 これによると、旧岡崎盲唖学校(現岡崎聾学校)の二宮金次郎像が岡崎市内の学校の中で
一番先に建てられたことになります 。「愛知県教育史」 (昭和50年9月発行)には、二宮
金次郎像の建立について次の様に記されています。
 
二宮金次郎像の建立
明治期以来、修身教育における理想的人間像の一人とみなされてきた二宮金次郎が、校庭の
一角にその立像を見せるようになったのは昭和期に入ってからである。二宮金次郎が勤勉な人
物の理想像として児童への訓育的意義が重視されるようになった背景には、昭和初年からの経
財不況と農村漁村の自立更生運動があったことは見逃せない。
全国の小学校における二宮金次郎像の建立において本県はきわめて重要な役割を果たした。
特に、岡崎市は二宮金次郎像の石像の主産地として、全国の小学校へこれを普及させる上で
果たした役割は大きい。
 本県内小学校の二宮金次郎像建立年を表示したものが第37表である。県内で最初に建立さ
れた二宮金次郎像は、大正13年(1924)の宝飯郡前芝尋常高等小学校のもので全国でも
最初のものといわれるが、表には表れていない。表に明らかなように、二宮金次郎像の建立が
  
年次  昭和元  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15   20  計
学校数  ー  2  1  4  5  7  38  41  67  55  19  11  11  21   ・  ー 305 

一つのブームとなって、県下の小学校で多く建立されたのは昭和8年から昭和15年にかけてで
あった。第38表に示すようにその像の素材は圧倒的に石材が多い。二宮金次郎像では薪を
背負って本を読む金次郎の立像が一般的ではあるが、そのほかにも左手で「ビク」を背負った
もの(前芝小)や鍬をついて本を読むもの(勝川小)などがみられ、像の台座に文字を刻んだ物
も多くみられる。刻字のうち最も多く見られるのは「勤倹力行」でそのはかにも「報徳」「至誠」
などの文字もみられるが総じて「勤倹」とか「勤勉」「勤労」に関する文字が」最も多い。
そこには当時の二宮金次郎像建立の訓育的意図を読み取ることができる。 

この表の昭和4年の一校が本校(旧岡崎盲唖学校)であり、おそらく石像としては県下で
最も古いものと思われます。本校の金次郎像以前のものは、銅製などの像だったようです。



〔二宮金次郎像 除幕式・同窓会参列:昭和4年 後ろは明願寺〕
(前列中央 佐竹政次郎校長先生、その左 きさ先生、前列右端 桑子勤治先生

「愛知県立岡崎聾学校創立50周年記念誌・五十年を語る」の沿革には
「昭和4年1月16日、二宮金次郎先生の石像を校庭に建設す。」と記
されています。「龍城の友」(昭和4年3月)には同窓会の記録が掲載。

紀元節の拝賀式及二宮金次郎先生石像建設式に参列後第6回同窓会総会を開く。
先ず桑子副会長開会の辞を述べ、続いて本多先生、古井銀市君祝辞を述べられ
校長も久しぶりの皆様との対面に喜びの色を面に表しつつ挨拶と二宮先生の事績
を引用せられるなどして丁重な訓戒をせられ会計報告に移る。   (略)
次に役員改選を行おうとしたが、正午になった為午餐をなし、一同二宮先生石像の
前に出て記念撮影をなし、校友会会員の余興に満場の喝采を博し、、(略) 

その時佐竹政次郎先生が引用された、二宮金次郎先生の言葉も掲載されています。

  二宮先生の教訓
 「富むと貧しいとは元来遠く隔つものではない。ただ少しの隔てで畢意心得に在る。貧者
は昨日の為に今日勤め去年の為に今年勤める。だから終身苦しんでその功がない。富者は
明日の為今日勤め、来年の為に今年勤める。従って、安楽自在で為すこと一つとして成就
せぬはないのである。例えば今日飲む酒がないと借りて飲み、今日食う米が無いと借りて食う。
之貧窮すべき原因である。(略)私の本願は人の心の田の荒蕪を拓いて天授の仁・義・礼・智
を培養し善き種を収穫すると同時に又蒔き返して国家の善き種を蒔き弘めるにある。
心の荒蕪が拓かれさえすれば地の荒蕪なぞ何万町歩あろうとも憂うるに足らぬ」とて、、、 



昭和4年2月11日に紀元節祝賀式に続いて二宮金次郎先生石像建設式が行われたと記録
されています。像の設置は同年1月16日、式典は2月11日ということだったようです。
また、「龍城之友」(第24号、昭和4年3月発行)には当時第3学年の黒川伝三氏は次の
様な作文を書いておられます。 

〔二宮金次郎石像建設時の黒川伝三氏の作文〕

注)黒川伝三:昭和7年3月卒業で、後に同窓会長も務められた。昭和2年から同10年
まで岡崎盲唖学校の教員であった黒川延枝先生は同氏のお姉さんである。


今回の調査の最中に桑子勤治先生筆の二宮先生石像の図が見つかり
その右下に裏面の図が書かれていました。それによると、裏面にはめられて
いた銘板にあった言葉は次のとおりです。
これにより、二宮金次郎像を建設した理由が判ります。当時の修身の題材
であったことと共に
①昭和天皇の御大典記念
②本校創立25周年記念であったということになります。

昭和3年11月10日
 御大典記念

昭和3年6月11日
 本校創立25周年記念
    聾唖部    校友会
    盲 部    信友会
    取持ち    鈴木忠太郎
    台石提助  鈴木文吉 

足が折れた理由

山本冨子先生(本校私立時代の昭和15年から勤務された)によると
 二宮金次郎石像 について
三河大地震(昭和20年1月13日)で揺れて転んで台座から地面に落ちた。
頭が大きくて足のところから折れて下に落ちたと思う。台座の周囲の石の柵に
当たったか何かで足首のところが壊れてしまった。
地震の後、学校で二宮金次郎が落ちていたので大騒ぎになったのを覚えている。
当時の田中校長先生、松井先生、奥村先生らが、「捨ててしまうのも惜しいし」と
困っていたら、学校の前の石屋さん(浅井という石屋さん)が「足を切れば何とか
格好がつくだろう」と言ったので、足から上を使おうということになって石屋に
直してもらった
注) 浅井という石屋さんは御主人が戦後まもなく亡くなり、石屋もやめてしまった。

岡崎のタウン誌「リバーシブル」1996年5月号 路上探検(67)二宮金次郎像その2より
民族史研究家 「嶋村 博 氏」

岡崎市が二宮金次郎像の石像の発祥地であり、最大の生産地だったということはあまり
知られていない。全国の校庭に金次郎像を広め、これほど有名にしたのは、実は岡崎の
石彫業者だったのだ。
昭和61年に岡崎石製品協同組合連合会から出版された「石都岡崎・石と共に生きる
組合設立100年記念誌」に岡崎における二宮金次郎像の生産のことが書かれている。
この記念誌によれば、岡崎で最初に作られた金次郎の石像が、昭和3年9月から11月
まで開催された御大典奉祝名古屋博覧会(鶴舞公園)に出品されている。
当時梅園町在住の仏像作者長坂順治氏が、彫刻家多和田泰山氏の指導を受けて
彫った石像である。「教育愛知」(昭和46年2月号)にその写真が載っている。
薪を背負って読書する「負薪読書」のスタイルだということは重要である。
その後全国に広まる「負薪読書」のスタイルは、岡崎の石彫業者が決定した可能性が
ある。 さて、この金次郎第一号像は、買い手がついたかどうか記録は無く現存しているか
どうかも不明である。
続いて昭和4年1月6日、旧岡崎盲学校の校庭に金次郎像が立てられている。
(同校沿革史)
これが岡崎で作られた第二号像で、岡崎市内に初めて立った金次郎像ということになる。
岡崎盲学校に連絡をとってみた。「現在の校舎は新しく、こちらには金次郎像はありません。
大正8年から昭和27年まで伊賀町の旧広幡小学校の敷地に盲学校があったのでそちらに
あるかも知れません。」とのことだった。行ってみると、盲学校の旧敷地には現在専門学校
が建っていた。敷地内を丹念に調査させていただいたが、残念ながら第二号像はみつから
なかった。

本校の二宮金次郎像も長坂順治氏の作品と思われます。
また嶋村先生は同上の「リバーシブル」の1996年7月号
路上探検(67)二宮金次郎像 その3でその後の調査をのべられています。

岡崎で作られた二宮金次郎第2号像を遂に発見。
この石像は先回の梅園小学校のものより二年前、昭和4年1月6日に旧岡崎盲唖学校校庭に
立てられている。 (同校沿革史)
当時盲学校と聾学校は一緒になっていて、昭和27年に分離する際、現在の聾学校に持って
こられたとのこと。
頭でっかちで少々アンバランスである。二宮尊徳は実際には大きくてごつい人だったらしいから
その少年時代はこんな感じだったのかもしれない。本を持つ手も一号像と 同じく右手、なぜか
3号像である梅園小学校のものは左手で本を持っている。・・・(略)



この像の由来に関する記事

月報「岡崎の教育」昭和61年11月号
岡崎市教育委員会 発行/編集 より

二宮金次郎石像
今ではほとんど見向きもされず、校庭の片隅に佇んでいる
二宮金次郎の石像は、我がおかざきが発祥の地である。
明治、大正、昭和初期を通じて、日本初等教育の理想的
人間像であった二宮金次郎が、修身の教科書から飛び出
して校庭に姿を現したのは昭和初期である。糟谷正孝氏
の調査によれば石像が最初に製作されたのは昭和3年。
彫刻家多和田泰山氏を東京より招聘し、氏の指導により、
仏像作者長坂順治氏が製作した。名古屋博覧会を初め、
各地の博覧会に出品し宣伝に努めた。中でも昭和7年東京
上野で開かれた全国小学校校長会に石像を運び、建設の
意義を訴えたことは大きな効果があった。昭和初期は、不
景気で、時の斎藤内閣が「勤倹力行」を政策に掲げたり、
各地での報徳社の結成、報徳思想の普及等が背景にあっ
たが、岡崎の石工の皆さんの努力が金次郎石像を全国に
広める大きな力となった。岡崎市内で初めて石像が建てら
れたのは昭和4年、旧岡崎盲学校であるが、所在不明で
ある。市内小中学校には現在35基の石像があるが、最も
古いものは梅園小学校の石像で、昭和6年の建設である。













銘板が貼ってあった跡

昭和3年11月10日
 御大典記念

昭和3年6月11日
 本校創立25周年記念
    聾唖部    校友会
    盲 部    信友会
    取持ち    鈴木忠太郎
    台石提助  鈴木文吉  



長坂順治氏製作の金次郎像
愛知県清須市清洲小学校 昭和4年10月20日


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