尾張の火の見櫓                                     

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    名古屋城下
 尾張藩の火の見櫓(火の見所)は、江戸町火消しの発足の少し後 享保十二年
(1727年)初めて登場しました。
最初の
火の見櫓は伝馬町通りの本町と七間町間に、高さ162尺(49m)、
九尺(2.7m)四方という巨大な建造物として建てられました。
足軽二名が昼夜櫓上見張りに立ち、出火の際には半鐘・盤木を方面別に
打ちわけました。

 
 現在の伝馬町通り本町交差点 後方はJRセントラルタワーズ


 その後元文五年(1740年)京町通り御園町角、京町通り武平町角、門前町
七つ寺向かいの三箇所にも新設されました。また巾下蛯屋町、赤塚長塀町筋角
にも増設され六ヵ所となりました。
城下の防火は夜番辻番所が設置され見回られることになります。


 明治初期、既存の伝馬町他六ヵ所に、さらに三の丸付近にあった
旧愛知県庁舎内にも建設され七ヶ所になりました。
明治22年名古屋市市制施行後、消防組が組織され市内を東西南北の
四組として設置。
愛知県警察部に委嘱され警察署管内に所管されることになります。


 大正時代に入り常備消防として中消防署・南消防署が設置され望楼が
儲けられます。
昭和に入り昭和12年10区制となり、19年には13区に。それにともない各区に
消防署が設置され各消防署には望楼も建てられ署員による望楼勤務が行われます。
その後望楼勤務も昭和51年全面廃止となり望楼も順次撤去されました。

 昭和23年発足した名古屋市内の消防団にも一部火の見櫓が設置され
昭和63年には69箇所有りましたが、その後さまざまな理由で次々と
撤去されていきました。
現在は中川区、港区、天白区,緑区、守山区、西区に19箇所確認しております。

 
伝馬町通り 高さ49mもあった火の見櫓

望楼勤務    昭和12年ごろ

絶えず回廊を巡回し、市内はもちろん、市外
近郊にも眼を配り、常に火煙の上昇に注意し
火災らしき火煙を発見した時は直ちに直通
電話または通話管によって場所、方向及び
火煙の状況を見張室に通報した。

昭和初期の中消防署
日置出張所
昭和33年ごろの名古屋市消防署、南消防署

          資料:名古屋市消防局発行 名古屋消防史より


    尾張各地
 名古屋市外の尾張各地でも字(あざ)ごとに火の見櫓が建てられました。
しかし昭和16年戦時下体制で「金属類回収令」が施行され鉄製の
火の見櫓
半鐘までも供出されほとんどの
火の見櫓が無くなりました。

 戦後しばらくして各地でかつて
火の見櫓があった場所に徐々に復活して地域の
消防のシンボルとして、実際に火災に際して半鐘をならし活躍したのです。
電話の普及と、自治体消防、消防組合組織の誕生でその役目も終わり地区の
消防団のホース干しと同報無線のスピーカー設置の塔としての存在の価値が
残されているのみという現状です。

 保存状態も、地域により格差がありまだ定期的に保守点検をして塗り替えを
している地区もある反面、今にも倒壊しそうでまったくメンテナンスをしていない
火の見櫓もあります。 
ほとんどの
火の見櫓は消防署は管理していなくて、地域の自治会や消防団所有
になっています。
地域の事情で保守点検されない
火の見櫓が、東海地震が懸念されている今、
徐々に撤去されこれからも減っていくことが予想されます。


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