孝婦 とら
| 二宮金次郎像を探して愛知県岡崎市の山間部を訪れた時、生平(おいだいら)小学校に 金次郎に似ている女性の石像がありました。享保年間(1716年〜)親孝行で評判となり 時の岡崎城主水野和泉守に表彰された「孝婦とら」という女性の像でした。 |
生平(おいだいら)小学校
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その後、とらの出生地にも「孝婦とら像」があると聞き調査に行きました。
愛知県岡崎市古部(こぶ)町


古部の集落の入り口に建つ石碑
「孝婦虎之閭」
「閭」という字は「村の入り口」という意味があり虎さんの村の入り口ということ。

地区の中程の三差路に「孝婦とら像」

郷土偉人 孝婦トラ女像

昭和53年戌年7月
岡崎地方史研究会員211号
杉山次郎 建之

右手にきんちゃく袋を持ち背中には薪を背負う


薪を岡崎まで売りに行く姿で、父親が雨が降るから下駄を履いて行きなさいと
言われ、母親は天気がいいので草履で行きなさいと言われ、親孝行のとらは
右足に下駄、左足に草履をはいて出かけたという逸話を表わしている。

とらの生家あとに「孝婦碑」が建っている。

孝婦碑 碑文
| 虎は三河の国額田郡古部村の一平民の卑しい身分の女である。 家が貧乏で資産は無く、父母は腹一杯食べたことは無かった。 どうにも仕方が無いので、女の体でありながら日雇い人夫となって 働きました。父親が病気になってからは父の看病につきそった。 土地を耕したり木を切ったりして一生懸命に薪を作った。そして余暇 がある時に岡崎城下に薪を売りにでかけた。家から三里半の道のり を普通の男子より重い荷を背負って行った。また父母は着物はあった がふとんがなかったので、虎が草を集めて布団の代わりとし、自分は 鳥の羽をつけて寒さを凌いだ。夏には蚊帳がないので棕櫚の木の葉 を編み扇をつくり夜中蚊を追い父母を安らかに寝させた。自分は蚊に 刺されてもがまんした、父の薬を買いに知立まで歩いて通ったがさほど 遠いとは思わなかった。役人が虎の孝行な行いについて報告し、その 報告を里長に問いただすとその通りだと分かり享保9年殿様水野守が 虎は孝行者であると感心しほめ、米と麦を賜った。その量は三人分の 扶持に相当した。しかし夫との生活をわずかに助けるほどのものだった 享保16年殿様が亡くなり岡崎明大寺の龍海院に米や薪を奉納して悲しむ またその後、殿様は虎の祖父が売った田や山林を買い戻し税金を免除 された。貧乏のために他人のものを奪ったり飢え凍えたりしないようにと いう意味があったものでした。虎の子孫もまた孝行した。この虎の行いに 対して誰が卑しい身分の女で表彰するには足りないという人が有りましょう ありません。 享保18年葵丑夏 岡崎の老人 松本尚縞 |
銘菓「とらさん」

古部町の隣 茅原沢町の菓子舗「昭和堂」の焼き菓子
「とらさんの由来」
| 徳川時代の元禄から享保の頃、当地の古部に とらさんという考婦が住んでいました。参河誌に 「父権兵衛 病の後は 力よわき娘の手にて 一家を支ふる為男も重しとなす薪を取り岡崎の 城下に売り、急ぎ帰り父を慰め居たり」と記され ています。このことが岡崎城主水野和泉の守の 知るところとなり、享保9年と17年の二回にわたる 厚い表彰を受けました。孝婦とらの残した教訓は 今なお当地に受け継がれております。 これらの吉例にあやかり、銘菓「とらさん」として 謹製しました。 昭和堂 ちらしより、、。 |