四代目 慶寺丹長
製作者
善栄寺26世 栄宏道
特記事項/寄付者
積小偉大
碑銘
昭和56年3月1日
設置年月日
大きさ cm
ブロンズ座像
材質・形状
善栄寺
小田原市
神奈川県





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善栄寺
神奈川県小田原市栢山868

善栄寺 縁起
如意山善栄寺は創建以来七百数十年を経過した曹洞宗の古刹である。しかし創建の初めは律宗で、建保三年
(一二一五)巴御前が木曽義仲
和田義盛の両先夫の菩提のために善法真栄上人を招じて開山したものと伝える。
ついで南北朝の頃、延元三年(一三三六)に鎌倉円覚寺第十世
東明恵日禅師が足柄の地に隠棲のとき再建して
臨済宗に改め、一時大いに
繁栄したが、中世の末酒匂川のたびたびの氾濫をうけて寺地が流失し、寺院も荒廃したので
戦国時代に至って小田原北条氏が関東の覇者として
隆盛したとき三代太守北条氏康夫人として賢婦のほまれ高かった
瑞渓院が
巴御前開基の寺という因縁によって、当寺に帰依し、名僧悦叟宗忻和尚(透源大通禅師)に
請うて再興し堂宇を完成した。時に天文二十三年
(一五五四)で、この時より宗派を曹洞宗に改められたが、以来
四百数十年
統を継承し寺門を護持し、燈をかかげて今日に至ったのである。
当時はまた二宮尊徳先生と一族の菩提寺として知られる。この栢山の里は先生の生誕地であるので一族父母兄弟みな
当時の境内墓地に眠り先生の墓も
存する。そして寺には尊徳先生の多くの遺品と逸話とを伝えている。





二宮本家の菩提寺「善栄寺」




境内の「二宮金次郎少年勉学の像」
伯父 万兵衛宅で夜遅くまで勉学に励む16歳ごろの金次郎



四代目慶寺丹長作






製作者 慶寺丹長
昭和五十六年三月一日
報徳保育園理事長 善栄寺二十六世 栄 宏道











二宮尊徳先生の墓

二宮尊徳先生は、天明七年(一七八七)七月二十三日、栢山の中流農家に生まれたが幼少の頃酒匂川の洪水で家は貧困に陥り、
十四歳で父を十六歳で母を失った。
以後、刻苦勉励して家を再興、また抜群の才幹と卓越した人格によって各地方の財政復興と
社会救済に偉大な業績を遺し、すぐれた報徳の教えをたてて後世に伝えたのである。そして安政三年(一八五六)十月二十日
日光神領復興仕法中に栃木県今市の報徳役所でその偉大な七十年の生涯を閉じ、同地の星顕山如来寺に葬られた。この時先生
最後の
病床に持していた実弟三郎左衛門(幼名友吉)が、遺髪と遺歯を抱いて十月二十六日に故郷に帰り、当寺の二宮総本家の
墓地の中に埋葬したのがこの墓である。

「葬るに分を超ゆるなかれ」とは門下に残した遺言である。
「誠明院功誉報徳中正居士」とあるのが、先生の戒名である。   如意山 善栄寺






境内横の「報徳保育園」






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