二宮金次郎像

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二宮金次郎 負薪読書図

薪を背負った二宮金次郎の絵が最初に出たのは、金次郎の弟子であった
富田高慶が書いた「報徳記」の、薪を背負って本を読んで歩いたという記述

 
「採薪の往返にも大学の書を懐にして途中読みながら之を誦し少しも怠らず」

という表現を元に書かれた幸田露伴の「二宮尊徳翁」(明治24年・1891年刊)
の中に描かれた薪を背負って本を読む少年の姿の挿絵と言われています。


国立国会図書館近代デジタルライブラリー「幸田露伴・二宮尊徳翁」 より


では、この「負薪読書図」挿絵のデザインの「元」は、、?という研究が近年されています。
1989年出版 井上章一氏「ノスタルジックアイドル二宮金次郎」では、幸田露伴が参照
したであろうとしてイギリスの宗教家「ジョン・バンヤン」作「天路歴程」の挿絵をあげて
おります。主人公のクリスチャンが背に荷物を背負い、手に一冊の本を持って歩いている
図が金次郎の負薪読書図によく似ているからという理由のようです。

国立国会図書館近代デジタルライブラリー
「天路歴程・正」
ヂョン・バンヤン著  池 亨吉訳
出版 基督教書類会社 明治37年


また、2010年出版 岩井茂樹氏「日本人の肖像二宮金次郎」では、幸田露伴「二宮尊徳翁」の
挿絵を描いたのが、狩野派の絵師「小林永興」であったことから、江戸狩野派が描いていた
中国の故事を描いた「朱買臣図(しゅばいしんず)」が元の絵ではないかと推理されておられます。
これは薪ではなく芝をたばねた棒をかついで本を読んでいる図で、幸田露伴の「二宮尊徳翁」の
挿絵の表現に似ていて、こちらの方が近いと思われます。


国立国会図書館近代デジタルライブラリー
「狩野派大観」 狩野元信 筆
著者 斉藤 謙  吉浦祐二 編
出版 狩野派大観発行所 大正元年



その後、富山の売薬の人達が土産に配った「売薬版画」にこの図が頻繁に使われ出し、
さらに今でいう広告チラシにあたる「引き札」にも使われ広く一般の人々に認識されて
金次郎のイメージが定着していったということです。


引き札
明治時代の広告 ちらし 二宮金次郎像を図案化したものが見られる。
現在の岐阜市 池ノ上町



大きさ 36cm×52p


二宮金次郎像について

二宮金次郎の銅像が最初に作られたのは、1910年(明治43年)彫金家「岡崎雪聲」
(おかざきせっせい)が作った銅像と言われています。東京彫工会に出品した後、
明治天皇がこの像を気に入り買い上げ現在は明治神宮宝物殿に展示されています。
この銅像がその後の小学校に置かれた金次郎像の基本的なデザインと思われます。


この銅像は、岡崎雪聲の像を元に作られたレプリカで、静岡県掛川駅前に
昭和63年に設置されたものです。掛川には「大日本報徳社」があり、
報徳運動の中心地でもありました。




次に金次郎像が作られたのは、大正13年愛知県豊橋市「前芝小学校」で、
これがその後各地の小学校に作られた最初の金次郎像です。



寄付者:加藤六蔵 報徳運動家・衆議院議員
作者:藤原利平 加藤家の書生 後に彫刻家
製作年月日:大正13年1月26日     
素材:鉄筋にセメントで造形     


背負っているのは薪ではなく「びく(魚などを入れる袋)」で、
これはこの前芝あたりが当時漁村で、薪よりこちらの方が
この地区にふさわしいとして製作されたと思われます。


基台の裏面に記された銘文
大正13年(1924年)1月26日 藤原利平 謹作之


銅像の歴史 (「教育愛知」昭和46年1月号・愛知県教育100年史より

 二宮の銅像ができたのはたいへん古く、明治43年東京彫工会に出品されたのが嚆矢(こうし)
のようである。この像は現在、明治神宮宝物殿に保管されている。高さ一尺五寸三分山崎知治
作であるがどこで鋳造されたかは不明。当時全国銅製品の八十%を生産してる富山県高岡市
の業者は、「高岡では明治の終わりごろ作られたらしい。」と言っているから、あるいは同市の
鋳造かもしれない。当時三年生の修身教科書には二宮金次郎が四課(孝行・勤勉・学問・自営)
にわたって出ているが人気はたいしたことはなかったようだし、大きさからいっても同類が学校に
出回ったとは考えられない。
さて、愛知では岡崎の藤島鋳造所で大正十一、二年ごろ作ったことがあるという説があるが、今の
ところ何のてがかりもない。
豊橋市松葉町に住む石膏業者南柳館柳原緑太は、石膏で図工教材の模型や算数教材の各種
立体模型を考案して、全国の学校に最初に販売した人であるが、銅像なども手掛けており、大きい
ものは岡崎の藤島鋳造所で鋳造していた。彼は大正十四年すでに二宮の銅像を制作して、その
年の六月発行のカタログに掲載しているが形はまことに稚拙である。

昭和の初期、岡崎の藤島鋳造所が東京から迎えた新進気鋭の青年彫塑家多和田泰山が、昭和
二、三年ごろ二宮像の原型を作っているが、価格が非常に高くつき出回らなかった。
つまり、銅像はその原型がたいせつであり、そのためにばく大な費用と日時を費やすため、同一
原型で何本も製作すればコストは下がるわけだが、当時はまだ二宮像建設の気運などどこにも
なく、需要もないままに放置されていたという。(藤原製作所販売主任 陶山玉次氏談)
渥美郡田原北部小(現童浦小)に昭和九年四月に建設されたものが、この原型の像である。
陶山玉次氏が、(豊川市で銅器店を開業)昭和六年ごろ多和田泰山にきびしい注文をつけて
作らせた原型は、百二十センチという比較的大型のもので精巧なものである。陶山氏は第一次
世界大戦後の経済界の情勢を見、昭和初期の不況の中で商売を営んでいるうちに、「これは
必ずあたるときがくる」という確信のもとに、いわゆる商人のやせがまんで作らせたという。
がこれも数年間注文もないままウインドに放置されていた。やがて同型は後に豊川市三上小、
豊橋市多米小、宝飯郡小坂井西小などに建設された。
以上がいわゆる銅製の三河製品と呼ばれる二宮像で、すべて薪を背負っており、高岡製品は
芝を背負っておるので一見してすぐ見分けられる。
戦後三河地方にあった銅像は二宮像全体の三分の一ぐらいであったが、そのうち半数以上は
高岡製品であった。
 

第二次大戦中に金属供出令でブロンズ像(銅像)は国に供出され、金次郎像も
そのほとんどが寺の釣り鐘などと共に武器生産のために鋳つぶされた。


銅像として一般に最初に建立されたと思われる像

神奈川県小田原市 報徳二宮神社の銅像

この銅像は、昭和3年11月「御大禮記念」(昭和天皇即位)で、兵庫県神戸市会議員の
中村直吉氏が大阪の鋳金家「慶寺丹長」(けいじたんちょう)に作らせ寄贈したもの。
他に83体造られ京都・明石の小学校に寄付されましたが、戦時中に金属供出され
二宮神社のこの像一体のみが現存しています。岡崎雪聲のデザインとは本を左手に
持っているなどかなり違った印象です。

* その後の調査の結果、愛知県名古屋市緑区「明忠院」にもほぼ同じ像がありました。

現在、各地に建立された銅像は、そのほとんどが富山県高岡市の銅製品鋳造会社の作品である。

株式会社平和合金 ホームページ
http://www.heiwagokin.co.jp/ninomiya/

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石像の登場 (「教育愛知」昭和46年2月号・愛知県教育100年史より 

戦前、岡崎の石材業者は約三百六十軒ほどあったが、そのころいわゆる美術石工と呼ばれる業者
(観音像、大仏像、狛犬などの専門業者は数軒しかなく、二宮像もそれら数軒の美術石屋で製作
されただけである。
岡崎の石製品、特に美術石製品の発達は大正から昭和にかけてのことで、彫塑家 であり原型師
である多和田泰山の力が大きい。一般に薄肉ものと称されている浮き彫りなども多和田泰山なく
しては今日の発展はなかったといいえる。
その指導を受けたのは美術石工のほかに鋳造業者、木彫家、セメント製品製造十数名の仲間であった。
当時、地蔵石工と呼ばれた「長坂順治」もその中の一人であり、彼は泰山の指導で二宮像を彫り上げ
昭和三年(九月〜十一月)鶴舞公園における「御大典奉祝名古屋大博覧会」に出品した。
これがそもそも石像の第一号である。形としては非常に稚拙なものであったが、博覧会ではなかなかの
人気を博し、大阪の人に買い取られていった。
長坂は続いて第二号を製作、これが旧岡崎盲学校に現存するものである。同校校庭には今も脚が折損
して膝から上のいかにもアンバランスな感じの金次郎が立っている。同校沿革誌には「昭和四年一月
六日、二宮金次郎石像を校庭の一隅に建つ」とある。
当時は第一次大戦の影響から農村恐慌、自力更生運動の叫ばれはじめたころで、ここに着目した長坂
順治は「これをうまく宣伝して学校に売り込めば必ず商売になるに違いない」との確信を抱き同僚の
成瀬大吉に相談して「幼い子供たちに、勤倹力行、終身教科書のお手本である金次郎像を、すべての
学校に建設してもらおう。」と考えた。さっそく仲間業者に呼び掛けて研究と製作にとりかかり、金次郎の
出生地神奈川県の栢山から二宮神社なので資料を収集して服装・人相まで研究、文字通り貧困の
どん底から立ち上がった金次郎のイメージをそのまま現わすのに心魂を注いだ。(石像は耐久度と
重心の関係からタツキ袴をはかせてあるが、実際は股引であった。)やがて長坂・成瀬両氏の家では、
数名の若者が流れ作業による生産態勢にはいり、大量に出現してくるのである。


普及に力を注いだ岡崎の石屋 (「教育愛知」昭和46年2月号・愛知県教育100年史より

 やがて昭和十二、三年ごろまで「岡崎の石屋で産業になったのは二宮像だけだ。」といわれるほどの
盛況を呈するのであるが、そこには石屋仲間の並々ならぬ努力があった。
前記昭和三年「御大典奉祝名古屋大博覧会」への出品を皮切りに、引き続き各地で行われた博覧会に
出品して宣伝にこれつとめた。
昭和六年浜松で開催された「全国産業博覧会」(三月〜五月)には石材業者代表都築泰助(二宮像は
作っていない)の名で出品されている。昭和七年金沢市における「産業と観光の大博覧会」(四月〜六月)
には成瀬大吉氏が出品した。このとき、岡崎市の美合小学校長、自らその説明役を買って出て、会期中
ほとんど会場につめて、二宮像を学校へ建設することの意義から、二宮尊徳先生の業績までくわしく解説
した。会場でこの説明に興味をもってくれた人々はやはり各県の教育関係者が多く、このときの反響は、
たちまち現れ博覧会閉会後は全国から注文が岡崎の石屋へ殺到したという。
最大の効果を上げたと思われるものは、このころ東京上野で開催された全国小学校校長会へ石像を運び
約三十分間二宮像建設の意義や内容を実物とともに認識してもらう機会を得たことである。
一方、近在の学校には親方が直々に自分の建設した写真をもって各校に推奨宣伝して回ったという。
なお、昭和七年には斉藤内閣が「勤倹力行」を大きな政策の一つに掲げて発足したことから、時の文部
大臣鳩山一郎を始めとし安藤正純、足立謙三等大物十二名を賛助会員に仰いで、「二宮尊徳先生少年
時代之像普及会」を結成し、三尺物を定価四十円で登録商品として販売もしたが、このほうは経費倒れで
仲間割れして長続きしなかったようである。現在各学校の二宮像が顔形、材質大きさなどまちまちになって
いるのは安物がどんどん出回ったためであろう。
金次郎を修身教科書から校庭に飛び出させたのは、時の権力や文部省ではなく、製作した岡崎の石屋
仲間であり、母校の後輩の発奮を念じ、郷土の繁栄を願って石像を寄付した人々であると行っても過言
ではないようである。
注文は日本全国のみならず、遠く朝鮮や台湾からもどんどんやってきた。なかでも台湾からは、「楠公の
像と金次郎像各五十基宛ての注文が一度に舞い込み、アルバイトまで入れて刻みまくったこともあった。」
とその当時の隆盛ぶりを語ってくれた業者もいる。
こうしてまき起こされた全国的な二宮像建設ブームにのって漁夫の利を得たのが富山県高岡市の銅製品
の業者で、全国から殺到する注文で大幅にコストダウンし、石像よりは高価であるが形の良さが買われて
大量に出回るわけだが、不幸なことに戦争の激化に伴い金属回収に応じて供出されることとなった。


セメントの代替像 (「教育愛知」昭和46年2月号・愛知県教育100年史より)

  そのころ東京の美術学校( 注)東京美術学校・現東京芸術大学)では銅像の代替品として特殊加工の
セメント像の研究が進められていたが、その像の原型が意外にも先述の多和田泰山である。
彼は銅像の三河製品を作り、石像の金次郎を指導し、そしてまた代替のセメント像をつくるという文字通り
二宮像生みの親だったのである。
以下、東京美術学校内セメント美術工作研究会発行の「二宮尊徳先生少年時代勤勉像」のパンフレットの
一部を次に掲げる。
 金属特別回収と代替像
此の非常時局を乗り切る為に二宮先生の銅像も回収されることと決した時、その後をどうするかということは
大きな心配でした。色々な見方もありますが、児童が朝夕親しんだ二宮像が姿を消したまま台座だけが
放置されると言うことは忍び得ないことです。
硬い硬化石像の様な芸術味豊かで硬質堅牢な代替像であって、美術家、工芸家の指導の下に製作される
と決まったとき、私達今回の金属回収を担当する者は大きな安堵と喜びを感じたものです。扨て此の
代替像の大きさですが、戦時下資材と労力の経済の上からいって、成る可く全国均一の大きさに統一する
ことを望んで居ります。此の点一メートル像は原型の大きさとも一致し又児童のメートル目測の基準とも
なって一番良いのではないかと考えております。
  (東京美術学校内セメント美術工作研究会パンフレットより)

    コンクリート像について
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材料による違い


銅 像



名古屋市緑区 明忠院

小田原 報徳二宮神社の銅像と同じ作者(大阪 慶寺丹長)



石 像



岐阜県輪之内町大藪小学校 



陶 像



岐阜県海津市 吉里小学校 陶像(岡山・友敬作)



コンクリート像



岐阜県可児郡御嵩町 伏見小学校
第二次大戦中に金属供出令でブロンズ像が国に供出され
その代替品としてこのコンクリート像がかなり大量に
製作され日本中の各地に設置されている。同じ原型を
元に作られたようで、ほぼ同じ形状の像がたくさんある。

コンクリート像について
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木 像




神奈川県小田原市 尊徳記念館  木像(台湾製)


現存する金次郎像として圧倒的に多いその材質は、石(主に花崗岩)で、
昭和初期に愛知県岡崎市の石工が作り始め、各地の小学校関係者などに
売り込み、さかんに造られたようです。今でも残っている金次郎像の
大部分が石像で、そのうち岡崎周辺で造られたものもかなり多いと
思われます。残念ながら石像の場合は碑銘が彫ってあるものはまれで
今となっては作者や寄付された方の名前・竣工日などがはっきりしない
ものが多く、調べてももう分からなくなっているのが残念です。

また、最近新たに設置されている金次郎像には、非常に粗悪で
安価に輸入されている中国製のものが出回っている。


坐像

歩いて本を読む像を小学校に置くのは交通事情からも良くないということなのか
腰かけて本を読む像も数か所あるようです。また、伯父萬兵衛の元で夜中に
勉強する姿を現わした坐像も小田原の善栄寺や報徳博物館にあります。

 
小田原善栄寺             小田原市 桜井小学校



二宮尊徳像

金次郎が幕府にとりたてられ名を「尊徳」と名乗るように
なってからの大人の像も各地に残っています。


小田原市 尊徳記念館

小田原市 報徳博物館 50歳くらい ろう人形




静岡県袋井市 JR愛野駅前 回村の像




静岡県掛川市 大日本報徳社
努力した農民にほうびの鍬を与える像


最大像と最小像(少年像)

調査した金次郎像で最大だったのは、愛知県豊田市越戸町の灰宝神社で高さ2.2m
最も小さい像は愛知県新城市鳳来寺小学校の53Cm


愛知県豊田市越戸町の灰宝神社           愛知県新城市鳳来寺小学校


レリーフ様式

愛知県新城市 旧愛郷小学校の二宮尊徳像は大きな岩に彫り込んだレリーフ様式


高さ1.9m


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