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二宮金次郎 負薪読書図
初出
薪を背負った二宮金次郎の画像が最初に出たのは、金次郎の弟子であった
富田高慶著「報徳記」の中で、薪を背負って本を読んで歩いていたという記述
「採薪の往返にも大学の書を懐にして途中読みながら之を誦し少しも怠らず、、」
を参考に書かれた幸田露伴著「二宮尊徳翁」(明治24年・1891年)の中に描かれた挿絵が 負薪読書のイメージの最初と言われています。 ただし、実際に金次郎が薪を背負い本を読んで歩いていたという記録は残ってはいないようで 多分に弟子の富田高慶の思いが入っているとの考察も有るようです。 真実は今となっては想像の域を出ないということです。 また、富田は採薪の、、、と書いていますが下の挿絵の金次郎が背負っているのは 薪ではなく「柴」の方が近いと思われます。当時16歳前後の子供が背負って歩くには薪よりも 柴の方が理にかなっているということで挿絵を描いた小林永興は柴を選択したのかも知れません。 |
国立国会図書館近代デジタルライブラリー「幸田露伴・二宮尊徳翁」 より
富田高慶 (とみた こうけい/たかよし、1814年7月17日(文化11年6月1日) - 1890年( 明治23年)1月5日) 陸奥相馬中村藩士 藩復興のため金次郎に師事・入門し四大門人の一人 1852年(嘉永5年)に尊徳の娘・文子と結婚。金次郎の片腕として日光仕法・相馬仕法に従事。 「報徳記」 金次郎の弟子富田高慶が書いた金次郎の伝記 全八巻 安政4年(1857)成立 金次郎の出生から一家再興、小田原藩を初め600余の町村の復興、逸話が書かれている。 幸田露伴 (こうだ ろはん、1867年8月22日(慶応3年7月23日) - 1947年(昭和22年)7 月30日) 本名 成之 小説家 帝国学士院会員。帝国芸術院会員。第1回文化勲章受章 「五重塔」など 「二宮尊徳翁」 報徳記を元にして幸田露伴が著作 明治24年出版 博文館 小林永興 (こばやし えいこう、明治元年(1868年)9月 ‐ 昭和8年(1933年)2月13日) 明治から昭和にかけての浮世絵師、日本画家。狩野派 狩野永濯の門人 |
また、別にこの「負薪読書図」挿絵のデザインの「元」は、、?という研究が近年されています。 1989年出版 井上章一氏「ノスタルジックアイドル二宮金次郎」では、幸田露伴が参照 したであろうとしてイギリスの宗教家「ジョン・バンヤン」作「天路歴程」の挿絵をあげて おります。主人公のクリスチャンが背に荷物を背負い、手に一冊の本を持って歩いている図が 金次郎の負薪読書図によく似ているからという理由のようです。 |
国立国会図書館近代デジタルライブラリー
「天路歴程・正」
ヂョン・バンヤン著 池 亨吉訳
出版 基督教書類会社 明治37年
さらに、2010年出版 岩井茂樹氏著作「日本人の肖像二宮金次郎」では、幸田露伴「二宮尊徳翁」の 挿絵を描いたのが、狩野派の絵師「小林永興」であったことから、江戸狩野派が描いていた中国の故事を 描いた「朱買臣図(しゅばいしんず)」が元の絵ではないかと推理されておられます。 これは薪ではなく柴をたばねた棒をかついで本を読んでいる図で、幸田露伴の挿絵に近いと思われます。 |
その後、富山の売薬の人達が土産に配った「売薬版画」にこの図が頻繁に使われ、 さらに今でいう広告チラシにあたる「引き札」にも使われ広く一般の人々に認識されて 金次郎のイメージが定着していったということです。 |
二宮金次郎像について
銅像としての最初の像
二宮金次郎の銅像が最初に作られたのは、1910年(明治43年)彫金家「岡崎雪聲」
(おかざきせっせい)が作った銅像と言われています。東京彫工会に出品した後、
明治天皇がこの像を気に入り買い上げ現在は明治神宮宝物殿に展示されています。
この銅像がその後の小学校に置かれた金次郎像の基本的なデザインと思われます。
この銅像は、岡崎雪聲の像を元に作られたレプリカで、静岡県掛川駅前に
昭和63年に設置されたものです。掛川には「大日本報徳社」があり、
報徳運動の中心地でもありました。
岡崎雪聲 (おかざき せっせい、嘉永7年1月29日(1854年2月26日) - 大正10年(1921 年)4月16日) 明治時代の彫金家・鋳金家 京都市伏見区の釜師、 岡崎貞甫の子として生まれる。 21歳のとき に上京し鋳工を学び、鋳金家の鈴木長吉の門人となる。 東京美術学校(現東京芸術大学)鋳金科教授 |
大日本報徳社 公益社団法人 静岡県掛川市掛川1176番地 金次郎の弟子岡田佐平治と長男良一郎が報徳思想普及活動のために設立した。 「遠江国報徳社」を起源とする。報徳社は最盛期には全国に600社存在した。 報徳思想 農民であった金次郎が実践において学んで経験した、豊かに生きるための知恵を まとめたもの。極めて哲学的で大変難解な面もある。 佐平治の孫、岡田良平は文部大臣となりその後の修身教育で教科書に金次郎を 登場させその思想を具現化した。 |
小学校に置かれた最初の像
次に金次郎像が作られたのは、大正13年愛知県豊橋市「前芝小学校」で、
この像がその後、各地の小学校に作られた最初の金次郎像です。
寄付者:加藤六蔵 報徳運動家・衆議院議員
作者:藤原利平 加藤家の書生 後に彫刻家
製作年月日:大正13年1月26日
素材:鉄筋にセメントで造形
背負っているのは薪ではなく「びく(魚などを入れる袋)」で、これは
この前芝あたりが当時漁村で、薪よりこちらの方がいいとして製作された。
基台の裏面に記された銘文
大正13年(1924年)1月26日 藤原利平 謹作之
神奈川県小田原市 報徳二宮神社の銅像
この銅像は、昭和3年11月「御大禮記念」(昭和天皇即位)で、兵庫県神戸市会議員の |
材料による違い
金次郎像は材料により大きく印象が変わります。
主な材料は石像・ブロンズ像・コンクリート像・陶像・木像などがあります。
銅 像
鋳造による製作のため、細部まで繊細な造形が出来るのが特徴。
背負う柴や手に持つ本の文字まで表現している。
主な生産地は富山県高岡市の銅鋳造メーカー
神奈川県小田原市 三の丸小学校
石 像
現存する金次郎像として圧倒的に多い材質は、石(主に花崗岩)です。 昭和初期に愛知県岡崎市の石工が作り始め、各地の小学校関係者などに売り込み、さかんに 造られたようです。今でも残っている金次郎像の大部分が石像で、そのうち岡崎周辺で造られた ものもかなり多いと思われます。 |
残念ながら石像は碑銘が彫ってあるものは少なく、作者や寄付された方の名前・竣工日 などがはっきりしないものが多く、調べてももう分からないのが現状です。 ごくまれに石工が自分の名前を彫ったものが残っています。 昭和 3年 御大典記念 で竣工された愛知県名古屋市城北小学校の像は岡崎の石工であった 長坂順治の作であることが分かっています。 |
名古屋市城北小学校
陶 像
岐阜県海津市 吉里小学校 陶像(岡山・友敬作)
コンクリート像
三重県津市 雲出小学校
愛知県豊橋市 旧多米小学校
ブロンズ像が戦時中に供出され、代替像としてコンクリート像が大量に生産された。 現存するコンクリート像は日本中にある。 主な業者として「日本硬化石美術工業所」があった。 ※ 旧住所 東京都下谷区仲御徒町4丁目36番地 形は石膏の元型が有り、コンクリートを流し込んで作ったと思われる。 大きさは、高さ90pと120pの二種類ある。 北海道利尻島の金次郎像について利尻町の博物館が報告書を出している。 その中に「日本硬化石美術工業所」の記述がある。 |
木 像
神奈川県小田原市 尊徳記念館 木像(台湾製)
坐像
歩いて本を読む像を小学校に置くのは交通事情からも良くないということなのか 腰かけて本を読む像も数か所あるようです。また、伯父萬兵衛の元で夜中に 勉強する姿を現わした坐像も小田原の善栄寺や報徳博物館にあります。 |
二宮尊徳像
金次郎が幕府にとりたてられて、名を「尊徳」と名乗る
ようになってからの大人の像も各地に残っています。
小田原市 尊徳記念館
小田原市 報徳博物館 50歳くらい ろう人形
静岡県袋井市 JR愛野駅前 回村の像
静岡県掛川市 大日本報徳社
努力した農民にほうびの鍬を与える像
最大像と最小像(少年像)
調査した金次郎像で最大だったのは、愛知県豊田市越戸町の灰宝神社で高さ2.2m 最も小さい像は愛知県新城市鳳来寺小学校の53Cm |
レリーフ様式
愛知県新城市 旧愛郷小学校の二宮尊徳像は大きな岩に彫り込んだレリーフ様式
高さ1.9m
草鞋(わらじ)を差し出す金次郎像
尊徳の伝記「報徳記」に出てくる逸話を銅像で表したもの
三重県津市明合小学校
金次郎の生家、小田原北部の栢山(かやま)を流れる酒匂(さかわ)川は たびたび氾濫を繰り返した川だった。 住民は酒匂川の堤防普請をするため各家から人を出して共同作業を行った。 父 利右衛門が病弱で普請に参加出来ない為、一二歳の少年金次郎が代わりに 労役に出た。 しかし、まだ金次郎は子供で一人前の仕事が出来ないと悟り、せめて普請で働く 大人たちの為に家に帰って夜中に草鞋(わらじ)を作り差し出したというという、尊徳の 伝記「報徳記」に出てくる逸話を銅像で表したものである。 (修身の教科書に採用された話。) |