コンクリート像について

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小学校に設置された最初の二宮金次郎像は、愛知県豊橋市前芝小学校の像で
大正13年に地元出身の加藤六蔵 (報徳運動家・衆議院議員)が寄付したものです。
この像は藤原利平 (加藤家の書生 後に彫刻家)がコンクリートで製作されました。
その後各地で設置された像は、銅像や石像が多いのだが、なぜこの初代の像が、   
コンクリートで製作されたのかは不明です。理由として当時のセメント材の進化
と、製作のしやすさ等が考えられますが、当時の資料がほとんど無い状態です。 

 
豊橋市前芝小学校の金次郎像 大正13年建立
当時の前芝小学校のあたりは漁村であった為、薪ではなく魚を入れるビクを背負っている
前芝小学校へ
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コンクリートとセメントについて

コンクリートとは、セメント・水・砂・砂利を練り混ぜて固めたもの。
セメントはコンクリートの原料であり、接着剤の役割を果たしている。
<太平洋セメント株式会社HPより>


前芝小学校のコンクリート(セメント)像等についての資料

「二宮像をさぐる」 高橋一司氏 著 より

最初に現れたセメント像

三河地方の学校で、金次郎の像が最初に建設されたのは大正13年の事で、今の豊橋市立前芝小学校の
旧校舎の庭であった。大きさは1メートル程で、左手でビクを背負い右手に本を持った珍しい姿のものである

顔の表情といい本を持った手の角度といい腰つきといいまことに自然であるし、速度感も早からず遅からず
当を得ている。着物も銅像は表面が滑らかになり過ぎて木綿の品質が出ないきらいがあるし、石像の場合は
硬い感じがぬぐいきれないという、両者それぞれの欠点を有しているが、この像はまことに素朴で着古した
木綿の着物を着たいかにも百姓の倅らしい感じがにじみ出ていて、その出来栄えは稀に見る傑作である。
(石像最多作者 小林末博氏 談)

この像の寄付者は同町の加藤六蔵氏である。六蔵というのは世襲で先代の六蔵が前芝村長をつとめ、
衆議院議員を一期つとめた人であるが、像を寄付したのは息子の六像氏で同氏も村長をつとめ
愛知県町村長会長から衆議院議員に当選した人で親子二代に亘って代議士になった。

三河地方では出色の素封家であるこの加藤六蔵氏が、そもそも二宮金次郎像を前芝小学校に寄付する心境に
至ったのはとりもなおさず隣村豊橋市川崎町の渡辺平内治の影響である。渡辺平内治は明治35年に
社団法人志加須賀報徳社を創立し自ら社長となり大正14年に没するまで自社の活動に尽粋しながら
東三河各地に報徳社を設立させ報徳精神の普及に尽力したこの道の大恩人である。
(彼は弓道の師範で三河地方のその門下生があり弓道の指導と共に報徳運動を拡大していったようである)

加藤氏はこの渡辺平内治の講義を聞く機会がしばしばあり、早くから二宮尊徳を敬慕していた。
そしてこの思想を前芝村の次代を背負う子供たちに植え付けたいと夙に考えていた。

氏が村長を勤めるようになった頃たまたま同氏宅に書生として起居するようになった、後の三河地方
最大の彫刻家、藤原利平氏にその制作を依頼したものである。藤原利平氏は同町出身で幼少の
頃から彫刻を好んでしたが家が貧しいため加藤氏の出資で東京に出て朝蔭基明の門下生となり、
約二年程修行して暮らすかたわら木彫に専念、後に汎太平洋博覧会には出品の三点がみな入選し、
当時の新聞をにぎわせた逸材である。現に出身地付近には彼の刻んだ一刀刻の恵比寿大黒を
神棚に祀っている人もあるし狛や面などを大切に保存している家もある。
(十三号台風以前は彼の作品を所持していた人が多数いたが台風時に散逸してしまって今はその数も少ない) 

 金次郎は当時の修身教科書には勿論出ていたし単行本も何冊か市販されており、これ等を十冊程購入して
その伝記を読み、その人となりを調べさせて研究に研究を重ねて出来上がったのが前記のびくを背負った像である。

詳細は後で触れるが、当時の修身教科書の挿絵を見ても市販の図書を見ても薪を背負った金次郎の姿は
あまりみかけなかったし金次郎の数多いエピソードの中でも特に芝かりや薪とりに出かけたことが
強調された事実はなかったようである。従って国民大衆のイメージとなっている山からの帰りの
薪を背負ったいわゆる勤勉像には思いが至らず山に出かける時の姿に落ち着いたのである。(加藤六蔵氏 談)

その後豊川市牛久保町の鈴木喜市が、同校講堂落成記念に寄付した二宮像はやはりセメント像で、
腰に弁当の包みを下げ、背中に大きな芝を背負った十六・七才と思われるたくましい姿のものである。
この像も前記の像と同様、金次郎の強固な意志が顔の表情にはっきり表され実に見事な出来栄えである。
これが藤原氏の第二作である。建設されたのは昭和二年のことで、藤原氏がどうしてこの形に変えたのか
この間のいきさつは審らかではないが作者が重病で病床に伏しておられる今は調査のすべもない。(半田市在住)

次に豊橋市松山校区出身者山田敏郎氏(浜松市在住)が一メートル二・三十センチの台石に六十センチばかりの
像を松山小学校に寄付した事実がある。製作されたのは昭和三年のことで、台石の正面に「御大典記念」と
刻まれている。この像はすでに薪を背負い股引きをはいた一般に見かける姿である。これは同氏が二十才頃の
作で、東京での修行から帰った直後であり、幼少の頃の金次郎が同氏の心の支えになっていた事から寄付を
思いつき制作されたものである。現在同校には合併した狭間校の石像(銅像が供出され二世である)と
同校の石像と二基建っているが、山田氏の寄付した像については、沿革誌にも記載されていないし写真も無く
像は爆撃で一部が破損したため終戦時に撤去されてしまい、過去の事実を物語る何ものも残っていなかったが
昭和四十三年の暮れに同校からの連絡により出かけたところ、倉庫の奥にあった首のいたんだ像が私の
写真と一致、問題の像であることが判明した。(当時の写真一部寄贈)

御油町に住んでいた緑谷友吉が昭和五年頃やはりセメント像を制作している。これも五・六十センチの
小型のもので、個人の築山などに建てる目的で作られたものである。 この人の作品は他の
セメント作品とその製法が異なり、鉄筋が入っていないのが特徴である。緑谷友吉は明治三十九年
今の豊川市立牛久保小学校内に浄善寺があった頃、二丈三尺の大セメント大仏を作った作者で今の
万年塀に似たさしこみの塀や、セメントの臼や流しなど数個の特許権をもつセメント作品の権威者であった。

彼はその天性を生かし、セメントの固型を作り、それが硬化しないうちに素早くけずり取って仕上げるという
早業師で物指もあてずに精巧な二宮像をわずか一日ぐらいで仕上げてしまったと云われているが他の
作品同様仲々均斉のとれたよい作品を残している。

昭和十二年には、豊橋市花田小学校に、膝から上の金次郎像が建設されている。これは肩巾の二倍も
ある大きな芝を背負い、本を持った右手を下に垂らした珍しい像であるが、これは昭和三十八年同校
校舎新築に際し、移転しようとして破損したため処理されてしまった。作者は同校の校区に居住していた
○○氏であるが戦後動静が不明であり、同校も戦災にあったため記録も焼失していてこれ以上の事は
判明しない。

明治百年を記念して 昭和四十三年十一月十八日  高橋一司

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豊川市 牛久保小学校の藤原利平氏二作目の像
昭和2年

視線は本に行ってるようだが歩いている感じは無い。
むしろ立ち止まっているようにも見える。
同じ作者の作品でもかなり違っているのは
依頼者の希望もあったということもあるのかも。

牛久保小学校
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戦時中の金属類回収令による銅像供出後の代替コンクリート像について

1941年(昭和16年)9月 国家総動員法に基づく金像類回収令が実施された。


金属類回収令

第1条  国家総動員法 (昭和13年勅令第317号ニ於テ依ル場合ヲ含ム以下同ジ)第8条ノ規定ニ基ク回収物件ノ譲渡其ノ他ノ処分、
使用及移動ニ関スル命令並ニ国家総動員法第5条ノ規定ニ基ク回収物件ノ譲受ニ関スル協力命令ニ付テハ本令ノ定ムル所ニ依ル
第2条  本令ニ於テ回収物件トハ鉄、銅又ハ黄銅、青銅其ノ他ノ銅合金ヲ主タル材料トスル物資ニシテ閣令ヲ以テ指定スルモノヲ謂フ

この法律により各地の寺院の梵鐘を始め一般家庭の鍋・釜まで戦争資材として供出された。
 1943年(昭和18年) 同令が改正され、非常回収が強化された。この時期に国民学校にあった
銅像の二宮金次郎像も対象となり、ほとんどの銅像は供出された。その際各国民学校では、
「二宮金次郎 応召」と称して「出発式」や「壮行式」・「お別れの会」などが開催された。・・
回収されなかった銅像 小田原市 報徳二宮神社

昭和3年昭和天皇即位御大礼記念として
      神戸の中村直吉氏寄贈 製作は 三代目慶寺丹長


代替像
学校に設置された金次郎像は、ほとんどがその地区の出身者や卒業生・地区の団体などの寄贈によるもので
銅像が金属供出されてしまった後に台座だけ残された状況に、再び再建しようという気運が寄付者の人達に
沸き起こってきたという事が有ったらしく、銅像の代わりとして多くの学校で石像や当時代替用として販売され
始めていたコンクリート製の像が寄贈された。石像は愛知県岡崎市の石材業者が、一定の水準の像を販売。

愛知県春日井市 春日井小学校 昭和12年銅像建立時の台座
銅像は昭和19年に供出された


平成25年3月 地元有志により石像が再建された

春日井小学校金次郎像復元のページ
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コンクリート製代替像
各地に残るコンクリート製の像を調べてみると、そこには驚くべき事情があった。
一部を除きほぼ同じ大きさ・顔、体型、服装の像が多く見受けられるのだった。


草平小学校        美和小学校        加茂野小学校



牧田小学校       武芸小学校        長良小学校


大野小学校        高田小学校         東部小学校


若戸小学校         戸田小学校         村雲小学校

コンクリート製の金次郎像の製作などの資料はきわめて少ないのだが、手懸りとなる文書があった。
前述の 高橋一司氏 著の「二宮像をさぐる」によると、東京美術学校(現在の東京芸術大学の前身)が
製作・販売したもので、同校が銅像の代替品として特殊加工のセメント像を研究していた。そしてその像
の原型を岡崎市在住で高村光雲の孫弟子・彫刻家多和田泰山(昭和2〜3年ごろ岡崎で金次郎の銅像
の原型を作りその後石像の原型も作った)が作ったということである。<豊橋市賀茂町安藤隆次氏資料> 


東京美術学校内セメント美術工作研究会発行
「二宮尊徳先生少年時代勤勉像」のパンフレットの一部


<金属特別回収と代替像>

この非常時局を乗り切る為に二宮先生の銅像も実材として回収されることと決した時
その後をどうするかと云うことは大きな心配でした。色々な見方もありますが、児童が
朝夕親しんだ二宮像が姿を消したまま台座だけが放置されると言うことは忍び得ない
ことです。幸ひ硬化石像の様な芸術味豊かで硬質堅牢な代替像であって、美術家、
工芸家の指導の下に製作されると決まったときは、私達今回の金属回収を担当する
者は大きな安堵と喜びを感じたものです。扨て此の代替像の大きさですが戦時下、
資材と労力の経済の上から言って、成る可くは全国均一の大きさに統一することを
望んで居ります。此の点一米像は原型の大きさとも一致し又児童のメートル目測の
基準ともなって一番良いのではないかと考へて居ります。 

<勤勉像の原作と作者泰山先生>
「二宮金次郎像」は明治43年9月開かれた東京彫工会に出品されたものが、後用品に
選定されて御買上げの光栄に浴し、畏れ多くも、明治天皇には殊の外御愛賞遊ばされ、
時々表御座所にお飾りあらせられたる趣洩れ承ってゐる。天皇後崩御の後、明治神宮
宝物殿の御造営なるや、大正十年十一月ここに御奉納となり、現に西倉弐号柵下段弐
に御陳列になっている。東京彫工会の会員にして彫刻界の権威たる多和田泰山氏が此の
明治神宮宝物殿の御物たる「銅像二宮金次郎」に則り、特に謹作したものが。「二宮尊徳
先生少年時代勤勉像」である。本を手に持ち背に薪を負ふて家路を辿る姿は全くそのまま
で、又如実感にあふれてゐる。斯く木像は由緒頗る深くして、純真・素朴・孝心の情遺憾なく
表現されてゐるので、教育と芸術の両道を全からしむるに真に好箇の資料と云ふことができる。 

<新材料硬化石の特質>
二宮尊徳勤勉像に応用された硬化石の実体を調べてみると、外層は特殊の薬品を加へたセメントを
十分に粘たり、圧縮したりして完全に空気を除去し、強靭な粘性を出したものに永久不変化の、
暗褐色砕石と鉱物質青銅色の着色剤を混合して着色モルタルを作り、これを一乃至ニ糎の厚さに
練込着色を行ひ最上層は青銅色の含艶仕上げとなってゐる。内部は多孔質軽卆にして強靭なる
骨材を配合したコンクリートを以って作り、それが緊密に結合し一本となり、像全体が全く石質化
してゐる。作り方は原型から雌型を多数に分解して取り、これを組合せて、正確な型抜き方に
よって製作したものであるから、原型と全く変わりがない。尚酷寒地、酷暑地、海岸地方によって
風土に適するやう配合が考究されてゐる。セメントを主材とする点から見ると一種の人造石である
が、単なるセメントによる作品に比較して強度が遥かに大きく而も美術的であるのが特徴である。
これは内容に特殊の薬品を加へ、工程に於て特殊の操作を行ふことによって合理的に生まれてくる
新材料硬化石で特質である。     以下略 

昭和十六年十二月二十日発行
東京美術学校セメント美術教室内 セメント美術工作研究会

 高橋一司氏 著 「二宮像をさぐる」より

日本硬化石美術工業所のコンクリート製金次郎像について

   北海道利尻島の報徳碑

利尻町立博物館 西谷榮治氏が、ホームページ「集まれ!北海道の学芸員」の中に
コラムリレー第6回「博物館ロビーにある二宮尊徳が語る」という記事が有ります。
利尻町の仙法志小学校にあった金次郎像が利尻町博物館にあり、そのいきさつを
調査されたものです。その中に大変貴重な資料がありました。
前述の東京美術学校で製作・販売された金次郎像とは別の業者?の存在が判明したのです。
新たに分かった日本硬化石美術工業所が金次郎像とその台座を作り販売していたことは
資料によりまちがいないのですが、現存するコンクリート製の像がほぼどれも同じ原型で
作られたと推察されるため、まだ未調査で詳細は分かりませんが東京美術学校とこの
日本硬化石美術工業所の原型師が同校出身者で何か関係があるのかもと思います。 

「博物館ロビーにある二宮尊徳が語る」
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日本硬化石美術工業所の原型技師 依田君美について

日本硬化石美術工業所に、1942(昭和17)年、東京美術学校(現在の東京芸術大学)工芸科を
卒業した依田君美氏(1916年〈大正5〉〜2003年〈平成15〉)が就職し、同工業所の原型技師
として二宮金次郎像の原型を制作していたという記録があった。依田氏はその後宗教家となり、
「神幽現救世真光文明教団」という宗教団体を設立した。そのサイトに上の記載がある。

現在、各地に残るコンクリート製の金次郎像の原型を依田氏が製作されたのかは不明。 

「神幽現救世真光文明教団」ホームページより
http://www.mirokukan.jp/lifetime.html

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